寺の歴史

 

應海山(山号)棲眞寺(禅寺名)は、臨済宗妙心寺の末寺である。(2018.1.10作成)

 

 臨済宗は現在14派(全国約5700ケ寺)に分かれており、妙心寺派が最も多く、寺数は全国約3400ケ寺ある。妙心寺の開山は関山慧玄(無相大師)(1277~1360)、花園法皇(1297~1348)が開基である。

 

臨済宗は、明庵栄西(1141~1215)が日本にもたらしたとあるが(建仁寺開山)、その系譜は程なく絶えている。中国・唐の時代(618~907)仏祖45代・臨済義玄禅師(?~867)が臨済宗を確立したが、次の2つに分派。

黄龍派(黄龍慧南)~明庵栄西が日本へもたらす。

楊岐派(仏祖52代・楊岐方会)のものが、現在に繋がる日本の臨済宗の総てとなっている。

 

さて、棲眞寺については、源頼朝が挙兵(1180)した時から付き従い、源平合戦で戦功のあった土肥實平はその恩賞として、中国五カ国の総追捕史に任命されて、備後の国・有福の庄へ居を構えた後、息子の遠平は沼田の庄へ郡鶴城を築いて勢力を拡大した。

 

この時、源頼朝とその側室・棲木姫との間の娘(法名・天窓妙仏大禅定尼)が降下して、土肥遠平の夫人となった。しかし、その夫人は不幸にも夭逝した(1216)ため、その三回忌(1219)に当たり、その追善供養に實平によって棲眞寺が創建され、その後、遠平も次々と寮舎を建立して、広大・壮麗を尽くしたと言われている。尚、土肥家は毛利の両川と言われた小早川家の祖で、二代目の遠平から小早川と改姓している。

 

 創建から丁度60年後の1279年に学徳兼備の白雲慧暁禅師(1223~1298)が行脚中、会心の地として、当山に(13年間)錫を留められた(臨済宗東福寺派)。このことにより、白雲慧暁禅師を当山の開山と仰ぐのである。後に禅師は執権北条氏の懇請により、京都の本山・東福寺の第四世住持となり、75歳で遷化された。

 

その後、時は流れ幾度かの興亡盛衰を経て1662年に、臨済宗妙心寺派の仲芳祖純禅師が荒廃した当山に来られて、再興に全力を尽くされ再び蘇った。禅師も学殖豊富で道念堅固な名僧であり應海山棲眞寺記を編纂され、十一勝地を選び、それぞれ漢詩を作られた。よって禅師は当山が妙心寺派より転派後の第一世住職であり、尚かつ中興の祖と仰がれる。

 

1730年失火に遭い、殆んどのものを焼失。本尊の千手千眼大悲観世音菩薩像、二十八部衆立像のうちの13躰、太守の霊位、小早川家の紋章入り大法鼓等が僅かに残り現存している。その後、智省和尚(七世)が寺子屋教育をした時期もあったが、明治元年廃仏棄釈の令により、寺領の殆んどが没収され、廃寺の悲運に至った。

 

その後、信徒の苦心奔走の陳情・嘆願により、明治8年には再興が許され、同12年周辺の土地の払い下げ許可を得て、何とか法灯を継ぐことが出来た。更に大正年間、引田徳隣和尚(八世)のとき、大草村、高下一篤氏より、耕地6反5畝が寄進されている。

 

 引田明導和尚(九世)が、昭和49年4月7日に歿し、その後、数年間寺庭が一人で住んで護持していたが、やがて亡くなり、昭和63年から十世住職として西亮天和尚が丁度20年間、その責を全う。その間、平成8年には本堂新築、平成10年には庫裡が新築された。何れも地元関係者の寄進の賜物であるが、このことにより西亮天和尚は平成開山と仰がれている。平成19年12月26日歿。享年81歳。

  

平成20年5月1日よりは、十一世として児玉亮雲和尚が入寺。平成23年4月、広島空港大橋開通に合わせて、三原市により棲眞寺境内地及び隣接地内が整備され、展望デッキ・遊歩道・駐車場・公衆トイレ等も新設され、棲眞寺公園として参拝者を二重に楽しませている。